撮影所概要

京福電鉄北野線の北野~帷子の辻が開通した1926(大正15)年に、後の日本のハリウッドとよばれる太秦に最初の撮影所が誕生しました。阪東妻三郎が開設した、阪妻プロダクションです。阪東妻三郎が京福太秦駅の西300メートルの蜂岡(はちがおか)に建てたこの最初の撮影所が、後に東映京都撮影所へと発展することになります。

阪妻プロダクションの閉鎖後は松竹第二撮影所、帝国キネマ太秦撮影所と引き継がれ1931(昭和6)年には新興キネマ京都撮影所と改称されました。1936(昭和11)年に組織改編によって永田雅一が京都撮影所長になると、娯楽時代劇や、ミュージカル、ばけ猫映画などのホラーなど、娯楽路線を押し出した作品を送り出しました。1942(昭和17)年に戦時下の企業統制によって新興キネマが大都映画、日活とともに併合され「大映」が発足すると、撮影所は大映第二撮影所と改称されました。以降、配給網の縮小整理、フィルム供給の不足により、撮影所は休眠状態となりました。

1947(昭和22)年、 マキノ満男率いる東横(東横映画)が大映と提携して、満映(満州映画協会)からの引揚者を母体にこの地で映画製作を再開します。監督陣にマキノ正博、稲垣浩、倉田文人、脚本陣に小国英雄、八尋不二、比佐芳武、そして片岡千恵蔵と市川右太衛門とスタッフを堅めた東横は製作本数を着々と伸ばす一方、『きけ、わだつみの声(1950)』などの作品を残しました。

1951(昭和26)年4 月1 日に東横映画、太泉映画、東京映画配給の3 社が合併して「東映」となり、東横映画撮影所は「東映京都撮影所」と改称されました。同年12 月には、他社による配給から東映独自の配給(全プロ配給)へと転換しての第一弾作品『江戸恋双六』(東映京都製作)が公開されました。1953(昭和28)年『ひめゆりの塔』の空前の大ヒットを皮切りに、映画館での二本立て興業も成功し、1956(昭和31)年に東映は業界首位の配給収入トップに躍り出ます。この時の京都撮影所での映画製作本数は年間64 作品、1 週間に1 本以上、新作時代劇を世に送り出していたのです。

この頃、京都撮影所では東映京都撮影所となって初めての新ステージ(第5, 第6 ステージ)が1954(昭和29)年に竣工されたのを皮切りに、京都撮影所のオープン敷地内に二条城をモデルに作られた「東映城」(現在の映画村団体入り口)など、撮影所に次々と施設が建設され、1960(昭和35)年ごろまでにほぼ現在の撮影所のかたちが形成されました。

阪妻プロ撮影所(1926年) 帝国キネマ撮影所の頃(1930 年頃) 東横映画撮影所にあった時計台(1948年頃)

写真提供:東映太秦映画村 映画文化館資料室

Bando Tsumasaburo Studio (1926) Teikoku Kinema Studios (1930) Clock Tower at Toyoko Studios (Late 1940s)

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